(6)記憶にあるのは「デジタル時計の数字と風呂場に何かを敷いた情景」だけ
鑑定人の牛島定信教授は、調書の作成過程で警察官から“指導”があったとして、調書に書かれている内容は勇貴被告の記憶に基づいたものではないと強調し続ける。傍らでそのやりとりを聞く勇貴被告の目はうつろだ。
検察官「(警察の調書は)具体的で、被告をその通りに誘導するのは難しいと思うが」
鑑定医「ちゃんとした調書にするために警察官から指導がなされたと考える。(警察官の質問に)答えることができないと、筋道があうように考えて、次に同じ質問をされたときに(質問に沿うように)答えた。言われたことにあわせて『そうだ』と言ったと思う」
ここで裁判長が厳しい口調で、尋問をさえぎる。検察官が時間を気にして鑑定人の発言を度々止めたことに不満を抱いた様子だ。
裁判長「質問の仕方を考えるように。失礼だ」
検察官は一瞬黙り、別の質問に移った。
検察官「被告の供述では、(犯行時に被害者を)木刀でずいぶん殴りつけているとしているが」
鑑定医「アスペルガー障害の特徴として、記憶と考えていることの間が曖昧(あいまい)になる。本当の記憶なのかよく区別がついていない。調書に書かれていることが真実を述べているか、疑義を感じている」
検察官は冒頭陳述で主張した事件の経過を勇貴被告が記憶しているのかどうか確認するが、鑑定人はことごとく記憶はないとの結論を述べる。
検察官「(被告は)木刀で殴った後に、被害者に『やめろ』と叫ばれて殴るのをやめたとしている。その後、1時間くらい被害者と話し、被害者が『女優を目指している。舞台で役をもらった。母親も見に来てくれた』などと話していたとしている。これも被告本人の考えの中のことなのか」
鑑定医「そう思う」
検察官「その後、被害者が震え始めて、タオルを掛けてあげたというのも記憶の中の出来事とは違うのか」
鑑定医「そう思う」
検察官「鑑定人はこの事件のときの記憶を被告がどの程度持っていたのか、持っていないのか確認できているのか」
鑑定医「11回の面談で努力をしたが、徒労に終わった」
主張してきた事柄が勇貴被告の記憶にはないとされた検察官は、勇貴被告の残された記憶について質問を始めた。
検察官「記憶は全く残っていないのか」
鑑定医「アスペルガー障害に特徴的なものだが、写真のような情景で記憶を残している」
検察官「写真のような情景とはどのようなものか」
鑑定医「デジタル時計の数字の表記と、風呂場に何かを敷いた情景」
検察官「被告に記憶があるのはその2点だけか」
鑑定医「そうだ」
検察官「それ以外では、検察官が冒頭陳述で述べた経過を記憶していないのか」
鑑定医「そうだと思う」
検察官「全くないのか」
鑑定医「時間をかけて被告と話が出来れば写真のような情景が増えるかもしれないが、(面接期間が)2カ月ではそれぐらいしか聞き出せなかった」
鑑定人は勇貴被告が事件直前の記憶までも失っていると述べ始めた。質問を続ける検察官はもどかしそうな表情を浮かべる。
検察官「被告に別人格が出ていないときの記憶がないのはなぜか」
鑑定医「逆行性健忘という症状だ。事件と関係のない(事件の)午前中に母親と兄とラーメンを食べに行ったことも被告の記憶にはない。自然な逆行性健忘だ」
検察官「後悔の念を抱いていることについては」
鑑定医「自分の部屋に被害者の下着があって自分が犯行をやったことを確認している。そういう感情体験(後悔の念を抱くこと)を被告はしている」
検察官「記憶と思考に混同があるのはアスペルガー障害の特徴か」
鑑定医「学問的には突き詰められていないが、アスペルガー障害でなければ起こりえない」