(1)第1ボタンまで留め「よろしくお願いします」
東京都渋谷区の自宅で妹の短大生、武藤亜澄さん=当時(20)=を殺害、切断したとして、殺人と死体損壊の罪に問われた次兄の元予備校生、勇貴被告(22)の判決公判。午後1時半、「失礼します」と言いながら東京地裁104号法廷に入廷した勇貴被告は、今回も白いワイシャツの上に、Vネックの紺色のベスト、グレーのズボン姿。今日もシャツの第1ボタンまで留めて、刑務官から手錠を外される際には「よろしくお願いします」と述べるなど、生真面目そうな印象は変わらない。ただ、7回目の公判を迎え、落ち着いているように見える。
最大の争点となった刑事責任能力をめぐり、検察側と弁護側は激しく応酬してきた。精神鑑定では「殺害時は心神耗弱、遺体の切断時は『別人格』が現れて心神喪失の状態だった」とされたが、検察側は犯行前後の合理的な行動などを理由に挙げ「完全責任能力がある」として懲役17年を求刑。一方の弁護側は「殺害時から獰猛(どうもう)な別人格に支配されており、心神喪失状態だった」として無罪を主張している。
近年、責任能力が争点となる重大事件が相次いでおり、裁判所の判断が注目される。いわゆる「セレブ妻バラバラ事件」の三橋歌織被告(33)の東京地裁判決(4月28日)で、「責任能力を喪失していた」とする鑑定医の判断をふまえ犯行時に精神疾患を発症していたことを認めながらも、懲役15年の実刑を言い渡したのは記憶に新しい。勇貴被告の判決では、責任能力はどう判断されるのだろうか。
裁判長「それでは開廷します。被告は前に立ってください」
午後1時31分、勇貴被告は弁護人の前に置かれたベンチから立ち上がった。
裁判長「主文。被告を懲役7年に処する。未決勾留(こうりゅう)日数中、250日をその刑に算入する」
裁判長は、検察側の求刑から10年が差し引かれた判決の理由を続けた。
裁判長「本件公訴事実中、死体損壊の点については、被告人は無罪。これが裁判所の出した結論です。理由が少し長くなるので腰掛けてください」
勇貴被告の表情の変化は後方の傍聴席からはうかがえなかったが、座る前に軽く頭を下げた。裁判長はまず、平成18年12月30日、東京都渋谷区幡ヶ谷の自宅で亜澄さんの首をタオルで絞め、さらに浴槽内に顔を沈めて窒息死させたという犯罪事実を朗読。さらに、判決の最注目点について端的に説明する。
裁判長「責任能力が争点になっていますが、殺害時は完全な責任能力があったものの、死体損壊時には心神喪失の状態にあった可能性が否定できないと判断しました。理由をこれから説明します」
裁判長は、東京女子大の牛島定信教授(精神医学)の鑑定について、牛島教授の経歴や経験に照らし「鑑定は十分に信用できる」と言い切り、その理由を述べていく。
裁判長「検察官は牛島鑑定が『信用性の高い捜査段階の被告の供述を判断資料から除外し、独自の問診結果を資料としており、前提条件が誤っている』と主張するが、被告の公判供述は一枚の写真のような断片的な記憶しかないのに、物語性がある連続した記憶があるかのような供述を捜査段階でした経緯を具体的に供述した点も含め、全体として整合性のある内容で、作り話とは到底思えない」
公判での証言の信用性を強調する一方で、勇貴被告の検察官調書については否定的な判断を述べる。
裁判長「アスペルガー障害に罹患(りかん)していることを前提に検察官調書を検討すると、動機に関する供述が不自然であり、犯行の主要な行為における内心の動きについては、供述されていなかったり、平板な内容であったりして、一貫性にも不自然さがあることからすると、犯行状況の供述部分は信用できない」
そして、検察側の主張をこう一蹴した。
裁判長「牛島医師が被告の捜査段階の供述内容を前提とせず、問診結果を踏まえて鑑定を行ったことは何ら問題がない」
続けて、犯行時の勇貴被告の精神疾患とその病態についての説明に入る。勇貴被告は生来アスペルがー障害に罹患。中学生のころから強迫性障害が加わり、事件の1カ月以上前からアスペルガー障害を基盤とする解離性障害に罹患し、犯行日に至った、とする鑑定結果が読み上げられる。
裁判長「被告はアスペルガー障害を基盤に、激しい攻撃性を秘めながらそれを徹底的に意識しないという特有の人格傾向があった。被告は攻撃性などの衝動を制御する機能が弱い状態にあったが、アスペルガー障害を基盤とする解離性障害が加わり、外界の刺激が薄れることによって、この機能がさらに弱体化していった」
事件と精神疾患のつながりを徐々にあぶり出していく判決文。勇貴被告は背筋を伸ばし、微動だにせず座っている。