(2)「犯行は歌織被告の意思と判断に基づく」
■責任能力の判断
1 弁護人は、歌織被告が「短期精神病性障害」、または何らかの脳の器質的障害に基づく意識障害や幻覚の症状によって、心神喪失の状態に陥っていたため、無罪であると主張する。
2 責任能力の判断とは、個々の事案ごとに、鑑定の結果だけでなく、関係する証拠から認められる歌織被告の犯行当時の精神状態、態様、動機、前後の行動などの諸事情を総合的に検討し、刑事責任を負わせるべきかという観点から裁判所が行う法的判断である。
一方、精神科医による鑑定結果は、精神に障害があるかないか、障害がある場合、それが犯行時の歌織被告の意思や判断に与えた影響がどうだったかという観点から、障害の程度やその双方についての専門的知見に基づく参考意見である。
裁判所は、精神の障害の有無や程度の認定において、鑑定に合理性がある限り、十分に尊重する。しかし、鑑定結果が事理弁識能力や行動制御能力に言及している場合でも、それは精神医学の専門家としての分析結果にすぎないのであり、責任能力については、総合的に検討した法的判断によって最終的に決定する。責任能力の判断は鑑定結果に拘束されない。
以上の考えを前提として、裁判所は歌織被告の精神鑑定を実施するにあたり、責任能力そのものは鑑定事項でないと明言した上、歌織被告に犯行時、どんな精神障害があったか、それがあるならば、犯行時の意思、判断にどんな影響を及ぼしたかを鑑定事項とし、検察官と弁護人それぞれが推薦する医師双方を鑑定人として採用し、それぞれ独立の立場で鑑定を行うよう命じた。
両鑑定人とも鑑定の趣旨を理解して、鑑定を行った。一部鑑定の基礎データを共有したり、歌織被告の面接を2人が同席して行ったこともあるが、鑑定意見は全く別々に考えられている。鑑定手法において何ら不相当なところはない。
3 責任能力の検討
(1)歌織被告の精神の障害の鑑定結果
ア 鑑定結果
犯行直前、歌織被告は、短期精神病性障害を発症した。
殺人時、急激に強い不安などの情動反応が起こった上、一定の意識障害をともなう朦朧(もうろう)状態に幻視、幻聴などが伴い、夢幻を見るような状態に陥った。次々と切り替わる幻視の一部として祐輔さんを見ていた可能性があった。現実感を喪失させ、強い情動反応などのため、適切に状況を判断して行動を制御することが難しい状態にあった。
死体損壊、死体遣棄をしたとき、歌織被告には、祐輔さんと対話するなどの幻視、幻聴などがあり、多幸感があるなどの症状があった上、一定の意識障害があった。さらに重大な犯罪を行ってしまったという衝撃もあり、行動の抑制が困難になっていた可能性がある。
イ 鑑定結果の信用性
検察官は、歌織被告はそれまで誰にも、幻覚があったなどと供述していなかったのに、鑑定医らの問診時に供述するに至ったのは、鑑定医らが誘導的に質問したからで、鑑定結果は信用できないと主張する。しかし−。
a幻覚体験は、統合失調症による型と、それ以外の型とに区別することができる。歌織被告が供述する幻覚体験は、すべて後者に符合し、前者に属するものはない。このように矛盾のない幻覚体験を虚偽に語るためには、高度に専門的な知識が必要である。
b歌織被告の幻覚体験の供述を鑑定医が要約したかもしれないが、歌織被告が供述していないことを作ったり、供述したことをあえて取り上げなかった形跡は見当たらない。
c歌織被告が供述した幻覚の内容は、祖母や祐輔さんに関連する具体的なものであり、鑑定医の誘導により供述したものとは考えにくい。
d当初、捜査官に対し幻覚体験らしき話をしようとしたが全く取り上げてもらえず、その後は自分がおかしいと思われるのが嫌だったので、弁護人や裁判所に対しても話せなかったからであるとする歌織被告の供述は、歌織被告に対する取り調べ状況からすれば、信用できる。
以上から、犯行当時、歌織被告には先に述べた幻覚症状が生じていたと認められ、その他犯行当時の歌織被告の精神の障害に関する鑑定結果の信用性に疑いを差し挟む事情はない。
(2)責任能力の判断に必要な鑑定結果以外の諸事情
ア 殺害行為前の行動、動機
歌織被告は、殺害行為の直前、友人と応対したが、そこに特に異常さは認められない。その後、短期精神病性障害を発症して先述のような精神の障害を有することになる。先に認定した犯行動機の内容は、歌織被告の当時の状況からすれば自然で、理解できる。
イ 殺害行為の態様とこれに関する歌織被告の記憶
祐輔さんの受傷状況から、歌織被告の攻撃は頭部に集中していたと認められる。歌織被告は、犯行時、一定の運動能力と意識の清明さを保っていたと認められる。一見粗雑な犯行であるが、異常なものとまでは認められない。
歌織被告は、祐輔さんを殴打する際の自らの行動、その前後の心情、祐輔さんの姿勢や殴打された際の反応などを記憶している。
ウ 死体損壊、死体遺棄について
のこぎりなど必要な用具を購入して準備を整え、のこぎりを使用して死体損壊行為に及んだ。その後、上半身はごみ袋に入れた状態で道路の脇の植え込みに捨て、下半身は一見空き家にみえる民家の敷地内に捨てた。身元が判明しやすい頭部は自宅から比較的離れた公園の土の中に埋めた。指紋により個人の特定がされる右手および左腕は、管理人がごみを確認して仕分けする自宅マンションのごみ捨て場とは別のごみ捨て場で家庭ごみと一緒に捨てている。自己の犯行の発覚を防ぐための合理的な行動をしている。
歌織被告は、死体が怖くて目の前から消したかったから損壊・遺棄したと供述する。そうした心情は否定しないが、犯行隠蔽(いんぺい)の目的もあったと認められる。
エ 犯行後の行動
歌織被告は、祐輔さんの捜索願を出し、死体損壊に使用したのこぎりなどを実家に送り、一時祐輔さんの死体を入れていたクローゼットを業者に依頼して処分し、床、クロスの張り替え工事を業者に依頼し、さらには祐輔さんの安否を気遣う祐輔さんの父親に対し、祐輔さんになりすまし「迷惑かけてすみません。もう少しだけ時問を下さい。祐輔」という内容のメールを送って祐輔さんが生きていることを装うなどしている。これらは明らかな犯行隠蔽行為であり、歌織被告は、その目的達成のため、複数の者と目的を持って交渉している。(3)責任能力の判断
殺人行為時、歌織被告は、短期精神病性障害を発症し、急激に一定の意識障害を伴い、夢幻を見るような状態に陥った。幻聴や幻視などが生じ、相当強い情動もあった。しかし−。ア 幻聴や幻視などの内容は、歌織被告の祖母や祐輔さんの読んでいた雑誌などに関係するものや当時の自己の状態が反映したもので、歌織被告の人格からの乖離(かいり)はない。また、例えば祐輔さん殺害を指示・示唆するような犯行を誘引するものではなく、犯行動機の形成に全く関係がない。
イ 歌織被告は犯行の一部や当時の心情についての記憶を有し、犯行動機も当時の歌織被告の状況からすれば了解可能で、動機を踏まえれば犯行態様にも異常さはない。いずれも歌織被告の人格と乖離していないし、犯行後には目的を持って犯行隠蔽行為を行っている。
以上からすれば、殺害行為は、歌織被告が、その意思や判断に基づいて行ったものと認められる。殺人行為当時の歌織被告の精神の障害は、現実感の喪失や強い情動反応により犯行の実現に影響を与えていたものの、責任能力に問題を生じさせる程度のものではなかったと認められる。
鑑定医は、歌織被告の行動制御能力がなかったのではないかと述べている。しかし、相手を刺し殺す殺人の場合にも、それが悪いと知りつつ刺してしまうのであり、これも行動が制御できていないともいえる。その場合とどう相違するのかと問われて、鑑定医は「あらゆる重大犯罪は、犯罪時点で何らかの精神の変調がある」「情動という現象に関しては、実際非常に難しい」とも述べていることなどから、鑑定医の供述は、歌織被告が殺害行為時に完全責任能力があったことについて合理的疑いを生ぜしめない。