木嶋被告手記(2012.4.14)

 

2 「長女である私だけが特異な存在」

木嶋被告

 2年半の勾留生活では様々なことを考えました。折々の心境の変化もありました。私の故郷である北海道に、報道陣が大挙して取材合戦を行い、マスコミを賑(にぎ)わせた時でさえ、私の子供時代について正確に把握した人は皆無でした。

 私は子供の頃から、誰に対しても深いところまで心や意識を開いてなかったので、他人にわかるはずがありません。常に期待に応えることに必死になって生きてきて、私には伸びやかな子供時代がなかったように思います。私の成育環境についても多くの質問が寄せられました。多分、木嶋佳苗の成り立ちのようなものに興味を持つのでしょう。

 弁護人も家族も、メディアからの取材は一切受けていなかったこともあり、情報が錯綜(さくそう)していました。審理後に北海道を取材に訪れた記者たちでさえ、いまだに誤った情報を流し続けていることには嘆息します。結局メディアのインタビューを受ける人間というのは、私や家族とその程度の関係であったということに他ならず、そのような人から聞き出せるものは、噂話(うわさばなし)の域を出ないのです。

 私の実家は若い頃に大きく改築しましたが、幼い頃暮らした家は、リビングとキッチンに、子供部屋と両親の寝室と父の書斎の3LDKという割に小ぶりなものでした。私が育った家庭は、お金に困っていることも、有り余っていることもなかったけれど、子供の教育には惜しみ無くお金を使ってくれました。

 学校では通信教育で学び、複数のお稽古事の教室に通い、高校時代の長い休みには、離れた都市のホテルに泊まり込み、大学受験予備校の講習を受けさせてくれました。

 グルメで料理上手な両親のお陰で、当時の田舎では奇跡的に豊かな本物の食生活でした。父からは読書の楽しみを教わり、新しく購入した本を読み終えたら、父の書斎に持って行き蔵書印を押して貰(もら)い、父と討論した時間は心の糧となっています。

 読書感想文や作文を書くと、周囲の人たちはとても褒めてくれたし、賞を受けたりしたけど、自分が書く文章を上手だとは思えなくて、作文は苦手でした。私の作文が目立ったのは、教師や他の生徒の水準が低かったということであって、的確な批評をしてくれたのは父だけでした。

 実家のリビングには大きなソファが置いてあり、私はそこに座って本を読むことが好きでした。物心ついた頃からあったそのソファは、数年おきに専門業者に依頼し、布地を張り替えたり修理を重ねて長年使っていました。本格的なオーディオセット、ピアノとチェロとバイオリン、棚に並んだ多くの本とレコードと映画のビデオとLD。鍋や食器、大きなガスオーブンに調理道具。箪笥(たんす)や食器棚、鞄(かばん)と靴。思い起こすと、実家にあった印象深いものは、決して華美ではないけれど、そこには質の高い文化がありました。

 子供たちの勉強机や椅子、ダイニングテーブルや用途別にしつらえたラックの数々は、日曜大工が得意な父が作ったものです。4人の子供と両親の6人家族で、明るく賑(にぎ)やかな家庭でした。大人になり実家を離れてからも、4人の子供たちが仲良く助け合って生きてきた絆の強さは、両親の教育の賜物(たまもの)と思います。私の父は、厳格で繊細で知的な人でした。母は天性の自由人で、家事に関しては天才的なセンスと技能を発揮していました。

 同じ両親から生まれ一緒に育てられた妹と弟は、至極普通の子供で、天真爛漫(らんまん)に成長し、大学に進み、社会人となり働き、結婚して子供を授かり育てるという真っ当な大人になっています。長女である私だけが特異な存在でした。私の場合、8歳で初潮を迎え、体のフィジカルな成長は10歳でピークとなり、メンタルな面も含め早熟でした。

 私は両親の教育方針により、テレビ番組を見ない環境で育ちましたので、私の教養体験のベースは、10代に接した数多くの本と映画と落語とクラシック音楽です。

 中学校を卒業する頃には、一通りの古典文学を読了していました。国内外の様々なジャンルの本を選び、取り憑(つ)かれたように本の世界に浸っていましたが、田舎には、私と同じレベルで会話ができる同級生はいなかったのです。父の影響で、小学生の頃から愛読していた朝日ジャーナルで知った立花隆さんや小倉千加子さんについて論議するような友人は、いませんでした。

 今回の事件が報道されてから、朝日新聞出版発行の雑誌で小倉さんが、度々私についての記事を書かれていたことは、感慨無量な気持ちで読みました。

 中高生時代は、ビデオやLDで7百本以上の映画を鑑賞してます。早熟故の苦悩と、幼い時から自分の本源にある魔性の不安定なものに気付いていたことが重なり、それを宥(なだ)め、コントロールする努力をしてきました。理性の指示するところと、自分の中に渦巻く感情が噛(か)み合わない歪(ゆが)みを持て余していたのです。

 私は子供時代に経験したことによって、心の葛藤を抱え、ある時点から普通に生きて行くことを諦めました。常識的であるか、普通であるか、世間の慣習がどうかといったことにとらわれずに生きてきました。屈折した奇妙な価値観を引きずったまま大人になり、自由奔放で浮世離れした暮らしがエスカレートし、ファンタジーの世界で生きることに逃避したのです。

 ある種の男性には熱烈な支持をされ続けてきたので、彼らの存在が私の空洞を埋めてくれることによって、何とか毎日をやり過ごしてきました。

⇒木嶋被告手記3 「私は、結婚に救いを求めました」